モダンアジャイルについて

2021年7月1日に「モダンアジャイル 再考 2021」というイベントが分散アジャイルチームについて考える会の主催でありました。

distributed-agile-team.connpass.com

このイベントのきっかけは、私のFacebookでのつぶやき?でした。

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これへのコメントできょんさん、鬼木さん、川口さんらに反応していただけ、さっそくオンラインイベントとして開催されたのでした。

以下では、イベントでいろいろな方から出た話、意見、考え方を踏まえながら、私自身の解釈や思っていることを書いてみます。最初に議論したいと思っていた内容もあれば、イベントでのやりとりから感じたこともあるし、後から思い出しつつ考えが変わってきた部分もあります。内容や文章について責任は私にあります。

モダンアジャイルとは

モダンアジャイル(Modern Agile)はJoshua Kerievskyが2016年頃に発表しました。Agile 2016の基調講演や、Agile Japan 2017の基調講演では来日したJoshuaがモダンアジャイルを紹介しました。Joshua自身はXP(エクストリームプログラミング)の初期からの実践者で、「Kent Beckから教わった」(川口さん談)そうです。1996年にIndustrial Logic社を創立していて、同社が作ったXPカードゲームは今でも持っています。

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さて、モダンアジャイルは以下の図にある4つのGuiding Principlesで説明されています。日本語で理解するには「導いてくれる原則」とでも訳すといいでしょうか。4つの項目は、今給黎さん、角さん、伊藤さん、平鍋さんらが日本語にしてくれたそうです。

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私は自分の研修など(「アジャイル入門」的なやつ)で、4つの項目をざっくり以下のように紹介しています。

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  • 工場などで物理的安全を確保するのは、作業者がパフォーマンスを発揮できるようにするため。おっかなびっくりではいい仕事はできない。
  • 心理的安全は、対人関係の中にあるリスクについて、安全を確保する=言いたいこと、言うべきことを誰でも誰にでも言えるという観点の安全性の話。
  • 安全ニアリング(=Anzeneering。Joshuaの造語)は心理的安全を含む(たぶん)が、それ以外にも、急にデータが消えるとか、ちょっとしたミスが重大な損害につながるとか、ユーザーが食い物にされるとか、そういう危険がなく安全であることまで含む。

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  • 現状維持を目指すのではなく、新しい発見とそこから起きる変化をはやくたくさん起こそうというアプローチ。
  • 実験には失敗がつきものなので、失敗していなかったらちゃんと実験できていないことになる。失敗しても問題ないような安全性が前提となる。安全性なくては実験はできず、実験なくして学習はできない。
  • いわゆるプロセスの改善だけでなく、プロダクトの改善も含む(これは「継続的に価値を届ける」との合わせ技になる)。

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  • なんの仕事をしているのであれ、アウトカム、提供価値、結果が大事。誰のための仕事かを理解した上で、その誰かまで価値を継続的に届ける。
  • 自分の仕事をやり遂げるところから、誰かの価値になる成果に意識をうつし、そのために自分の仕事に集中する。意識をうつすのにも、自分の仕事に集中するのにも、安全は欠かせない。
  • 価値が届いたかどうか確認するところまでが「価値を届ける」こと。届けたつもりだけど、本当に使ってもらえているのか、想定した価値が出せているのか、喜ばれているのか。知りたいと思い、実際に知るべく、フィードバックを獲得する。

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  • 最高の結果は、人々を最高に輝かせるところから得られる(awesomeは「メチャクチャすごい」とか、ものすごさや凄まじさを感じる意味合いという気がしてます)。受け手を輝かせることも、作り手が輝くことも同じく大切。価値の提供はそのために必須。
  • その輝くべき人々を考えるとき、誰のための仕事なのか、そしてその仕事をしているのは誰かを見渡したとき、見つかるすべての「誰」が対象となる。ユーザーだけでもダメだし、開発者だけでもダメ。
  • 輝く人々は新たな価値を生み出していくし、より良いあり方を求めて学習もする。逆に、価値を提供せずに輝かせることもできないし、学習せずに輝くこともできない。

以上4つのGuiding Principlesは、人々が集まって有意義な活動をしている場面であればどこでも適用できます。2001年のアジャイルソフトウェア開発宣言は、ソフトウェア開発に限定した内容になっていました。現在ではアジャイルという言葉や考え方はもっと幅広く、プロダクト開発全体、サービス提供、組織づくりなど、様々な業種、場面で使われるようになっており、それらを包摂した上でアジャイルという言葉に新たな意味づけをしたのがモダンアジャイルとも言えます。

(そしてうがった見方をするならば、アジャイルを冠するコンサルタントやコーチが支援できる業種が増え、マーケットが広がり、仕事の幅を多様にする再定義とも考えられます。)

Guiding Principlesの使い方

モダンアジャイルを学び、4つのGuiding Principlesを活用するためにはなにをしたらいいのでしょうか。ここでは主に、Joshuaの記事にあることと、鬼木さんにうかがった話とを書いていきます。私自身はいままで、モダンアジャイルを紹介しているだけで、直接的に使ったことはありません。

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モダンアジャイルは"principle driven and framework free"であると定義されています。やるべきこと(フレームワーク、プラクティス)が決まっておらず、4つのGuiding Principlesによって導かれ、自分たちのPrinciplesを軸にして推進されるものです。そこでまず活用に向けて、それぞれのGuiding Principlesを理解した上で、自分たちにとってのPrinciplesを定義していきます。以下のような疑問について考えながら、自分たちの状況、ビジネス、とりまく環境などを考慮に入れつつ、独自のPrinciplesを作ります。

  • 誰を「最高に輝かせる」のだろうか?
  • その人が「最高に輝いて」いるとはどういうことか?
  • どうしたらそんなふうに輝くのか?
  • 届ける価値とは何か?
  • 継続的に届けるとはどういうことなのか?
  • いま実験したいことは何か? していない理由は?
  • どんな危険が身の回りにあるか?

ここで言うPrinciplesは、日本語で言えば「行動原理」が近そうです。行動、やることそのもの(Practice)ではなく、行動する理由だったり行動が結果を生み出すメカニズムを説明するものになります。

こうした自分たちのPrinciplesを定義し、共有し、みんなが理解したら、モダンアジャイルのスタートラインを踏み出したことになります。ここからはPrinciplesを実体ある実際の行動に移していくことになります。

行動の中でもGuiding Principlesを使えます。ここは私の想像になりますが、ひとつのアクションを取り上げて4つの項目に照らして評価したり、日々の行動全体を見直したり、組織全体の方向性をそろえ直して局所最適を防いだりする際にも役立ちそうです。ふりかえりで使うのも良さそうです。

モダンアジャイルはいわゆるプラクティス、具体的なやり方やルールを提示していません。すべて自分たちで考えつつ、自分たちで作りつつ、自分たちでより良くしていく、「補助輪なし」という方法を提言しています。ルールやプラクティスが与えられると、ついつい「それをやること」に気が向かってしまい、そもそもの目標から逸れてしまいがちです。モダンアジャイルは、常に目標に向きながら自分たちの頭で考えるよう促しているように思います。

(そしてまたうがった見方をしてみると、決まったやり方がないぶんアジャイルコーチの支援の重要性が増すのかな……という気もします。まあ、ルールが多いほうがコーチが必要になる気もするので、どっちもどっちかもしれません。)

この4つは何なのか

さてこのへんから、私自身がモダンアジャイルを独自解釈したうえで疑問に感じている点に触れていきます。モダンアジャイルのGuiding Principlesとは何なのか、という話です。

"(Guiding) Principles"という名前は、アジャイルソフトウェア開発宣言のprinciples=「背後にある12の原則」を想起させます。12の原則のほうは、たとえば「顧客満足を最優先し、価値のあるソフトウェアを早く継続的に提供します。」という行動原理が書いてあります(ここでも、principlesは「原理」のほうが近いかなと個人的に思っています)。この一文は「顧客満足」を「価値のあるソフトウェアを早く継続的に提供する」ことで実現するという、目標と達成方法を含んだものです。

(なお和訳だとその構造はちょっとわかりにくいかもしれません。原文は"Our highest priority is to satisfy the customer through early and continuous delivery of valuable software."です。)

アジャイルソフトウェア開発宣言では4つの価値(Values)と12の原則(Principles)を述べています。XP(エクストリームプログラミング)では、価値・原則・プラクティス(Values / Principles / Practices)という構成で全体を記述しています。価値とは目指すもの、究極のゴール、目標です。プラクティスは価値に到達するための手段です。ただし、やみくもにプラクティスをやるだけでいい、やれば自動的に価値に近づくというわけではありません。そこをつなぐのが原則です。プラクティスがなぜ役に立つのか、どうしたら価値の到達に近づくのか、そこを説明し、機序(メカニズム)を明らかにし、プラクティスの効果的なあり方を示すのが原則です。

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あらためて4つのGuiding Principlesを見てみると、「○○する」としか書いていない。あるいは「○○を実現する」と言っているだけです。きょんさんが「動詞だから(価値ではなく)原則では」とコメントしていましたが、「○○」の名詞を取り上げればそこが価値のようにも思えます。

モダンアジャイルの使い方として、Guiding Principlesを使って自分たちのPrinciplesを見つけるという話がありました。そう考えると、「自分たちのPrinciples(とValueとPractice)」を見つけるときに使うGuiding Principles=「導いてくれる原則」なのであって、それ以上でも以下でもなさそうだ、そういう理解に落ち着いてきました。結局これ自体が補助輪だったのかと言える気もします。

Joshua自身、Agile 2017のキーノート中で"These four, I call them principles, you can call them values. You can call them thingies. They are the four things that I focus on."と言っていたりする(リンク先にtranscriptがあります)ので、Value / Principles / Practices という構造をモダンアジャイルでは採用していないか、単にこだわっていなさそうです。

さて、さらにめんどくさい話に少しだけいってみると、XPはパターンランゲージである(少なくとも志向している)。スクラムパターンランゲージである(と考えている人々がいる)。パターンランゲージがとらえるのは全体性であって、(うまく説明できないから拙劣なメタファを使うと)一本の美しい木があって、木が育つ土地があって、土地を取り巻く山々と水源と動植物相があって、気候は……とひと続きの壮大な連なりとして考える。それに比べると、モダンアジャイルの4つに分ける整理の仕方は安直で、即物的で、あたかも木を掘り起こして根と幹と枝と葉に切断して語っているような印象ですらある。

たぶんこれがモダンアジャイルのいいところで、わかりやすい。間口が広く、入りやすいし、やってみようかという気になる。アジャイルの濃い人たちの話ってめんどくさ……いい話なんだけど、今それを聞かされてもわからないし困るんですがという人たちはたくさんいて、そんなときはモダンアジャイルに導かれて自分たち自身のことを捉え直すところから始めるアプローチがうまくいく、かもしれない。

まあだからこそ、濃い人から見ると疑問もあって、こんなふうに絡んでしまってごめんなさいという話にもなるのかなと思います。

モダンアジャイルは何を価値とするのか

Ron Jeffries著 "The Nature of Software Development"では、価値(Value)をピラミッドの最上位に置いたうえで「価値とはほしいものだ」あるいは「価値とはあなたがほしいものだ」と定義しています。

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モダンアジャイルの価値は何なのでしょうか。2001年のアジャイルソフトウェア開発宣言では、4つの価値を明言していました。モダンアジャイルを導入するあなたは何がほしいのでしょうか? 何がほしいとき、モダンアジャイルを考えればいいのでしょうか?

私自身は「最高に輝く人々」がモダンアジャイルの価値なのではないかと考えています。2001年のほうの「個人と対話」と直接対応するためです。もっともモダンアジャイルでは「人々」の中で受け手と作り手を等しく扱っているためか、上でも紹介したJoshuaの記事では"Make People Awesome"を”Customer collaboration over contract negotiation"と紐付けています。

7月1日のイベント(本質的には雑談会)でも、最高に輝く人々に特別な価値を置いていると考えてもいいんじゃないかと、そういう雰囲気になりました。論が尽くされたわけではないとも思いますが。

もしそうでなかったら、「人々を最高に輝かせる」のはあくまで手段であり目標(価値)は別なのだったらと考えると、気持ち悪さが出てきます。人々が輝くとビジネスにいいとか儲かるとかいった理由づけは、幸福な人は生産性が12%高いから従業員を幸福にすれば会社が儲かるみたいな考え方と同じく、人間性を見失いかねない危険なものだと思います。

最高に輝く人々について

ここからは完全に私の妄想というか連想として出てきた話になります。人々を最高に輝かせたとき、最高に輝いている人々とはどんなものなのだろうか。そこで思い出した、というか根拠なく連想したのが『民芸とは何か』(柳宗悦)で述べられている民衆です。(ちなみに著作権切れのためKindle版が無料で読めます。)

「あの無学と云われ凡庸と云われる民衆も、無限に美しい作を生み得るのであると。…民衆ならでは、あの民藝品の美を産むことはできないのだと。…民衆の作に誤謬はあり得ない。自然に従順だからであると。私は最後にこう云いたいのです。民衆は天才より、なお驚くべき作を造り得るのだと。」

この本は民芸について、民芸運動の中心人物である柳宗悦が書いたものです。民芸運動は20世紀前半に始まっており、「日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する」運動です(Wikipediaより)。同書の中で柳は、「民藝とは民衆が日々用いる工藝品」と定義して、機械で工業的に作ったものや、人が意図的に美しく作ろうとしたものより、民衆が無心で「用途のために」作った民芸のほうが美しいと断じています。こうした工芸品は雑器とも呼ばれる、安価で多産に作られてきたものです。

この論の是非はここでは置いておきます。いったん前提を受け入れ、無学で凡庸な民衆が、自然に従順に、手作業で安価なものを多産する仕事の中で、無心に生み出した品が著しく美しくなり得ると考えたとき、この人は「最高に輝いている」と言えるのではないだろうか? それが私の疑問です。

この製作者であるところの民衆は、無心なのですから、もっといいものを作ろうとか、高く売れるよう作ろうとか、実験しようとか改善しようとか、考えていないはずです。ユーザーを喜ばせようという意識もないでしょう。自分の仕事に大してモチベーションがあるわけでもなく、一連の作業の繰り返しに無心で集中しているフロー状態のような状況はあるかもしれませんし、作ったものは確かに誰かの役に直接たつものですが、仕事への充実感はあまりなさそうです。決して収入が高いわけではなく、社会的地位もなく、文字通り無名の民衆のひとりでしょう。

こうした人々こそが美しい、価値のある品を作り出せる。ただし、そうした美は見過ごされたり、軽視されたりしがちである。そのように目立たないが優れた仕事をしている人々は、輝いていると言うべきだと思います。際立っておらず、壮大なビジョンがあるわけではなく、さして情熱的でもない、最高に輝く人々です。受け手と作り手を取り巻くエコシステムがこんなふうに自然に従順に成立するとしたら、そうした人々についてモダンアジャイルはどう考えるのか、あるいは「個人と対話を価値とする」広義のアジャイルからどう見えるのか、そして私はいったいいどうしたいのか。迷走する連想からたどりついた、これが私の疑問です。